猫のきまぐれ

大阪暮らしももうすぐ3年。あ…ありのまま、起こった事を話すぜ!

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大阪暮らしももうすぐ3年。あ…ありのまま、起こった事を話すぜ!

路上パフォーマンス

大阪来てもうすぐ3年、大阪生活といってまず浮かぶのは、夜な夜な大阪の繁華街に繰り出してやっていた「路上パフォーマンス」

人通りの多い梅田や北新地の路上で、譜面立てを立てて、マイクとスピーカーと投げ銭BOXをセット。スマホのカラオケアプリを起動して、大音量でカラオケを流して、マイクで歌う。。。

 

歌いながら、街ゆく人々とちょいちょい目が合うので、にっこり笑ったり会釈したり、声をかけたり、逆にかけられて反応したり、コミュニケーションを取っていく。

路上パフォーマンスを続けていると、「こういうことが好きで好きで、やりたくてやりたくてしょーがないんでしょう?!」とよく言われるが、路上を始める前はいつでも嫌で嫌で仕方ない。

 

でも「えいやっ」と始めてしまえば、あとは「やるしかない」。

そして始めてしまえば、だんだんと楽しくなってくる。

 

その自分の気持ちの変化と共に、投げ銭BOXに投げ銭が投げ込まれてくる。

大阪梅田での路上

「自分がどういう精神状態でいるか?」が、そのまま目の前で「投げ銭」という形で現れる。

要は「自分の放つエネルギーの形が最高な状態ならば、最高の現実が創造される」っていう量子力学の法則使って実験してみよう!みたいな事。

あと、頭の思考が最大タブーとすることをビビりながらも「えいやっ」とやってしまうことで、思考の想像の範疇を超えたことが起こるだろう、という事も。

自分を使った人体実験を、夜な夜なやってました。

↑1日で4万円以上の投げ銭を頂いたことも!

「自分の在り方だけで面白いと感じる世界を一人一人がそれぞれ創れるんだとしたら、すごいことだ!もし実現できるなら、世界中の問題は一掃出来るじゃん」って、本気で信じてた。

その為には、この方法を全人類がやるしかないって思いで、まずは自分がその体現をしなければ!って、その為に毎日必死になって生きてた。

突然の覚醒

そんな時に、事件は起こった。

2022年の12月。

 

この活動を拡める為に全国から集まり、それぞれ路上活動を行ったりしていた集団の中、「もうやめる」と抜けたい人たちが現れた。

「何わけわかんないこと言ってんだ?この方法が世界で唯一なのに。」って思った。スタッフが1人ずつ、抜ける人達と会って説得するってことになった。

私も勿論説得にあたるつもりで、お昼頃アポを取ると「21時くらいになりそう」と言われ、それまで家で待ってた。

 

題名にもある通り、ありのままをそのまま話すと(笑)

その時、「はっ」ってなった。

 

何かがあったわけでも、誰かと話したわけでもない。ただ家で子供達とご飯食べて、ゴロゴロしてただけ。

 

「はっ」ってなって、自分の中がとっても静かーーーーに、なった。

ついさっきまで、「なんて言ってやろう?目を覚まさせないと。」とか考えていたのに、、、突然、自分の中に何にもなくなった。

無の感覚

「何も無い」

あの静かーな感覚を言葉に無理矢理あてはめると、そう言うしかない。

(言葉にするってとても難しくて、自分の感覚を頑張って言葉にして口から出した瞬間にもう違うものになってて、「あーそうじゃないんだよな。。」と思いながらも、今自分が持ってる語彙の中で1番近いものを言うような感じ。自分の感覚にぴたりとハマる表現は無いと思ってる。今のところ。)

そんな感覚の大きな変化が突然、何の前触れもなく訪れて、約束の時間になって抜ける人と会った時には、全く別人のようだったらしい(後から何ヶ月も経ってから、その人から聞いた。)。

私も数時間前まで責める気や問い詰める気満々だったのが信じられないくらい、何も無いスッキリとした清々しい感覚で、その人と空っぽで向き合って、ただただ何の根拠も理由もない嬉しさが溢れるっていう、ほんと不思議な時間を過ごした。

 

今でもあの家にいた時に何が起きたのかは、分からない。

ただ「はっ」って感覚が変わった、って事だけ。

 

全てを辞めた

いつも言われていた「無の感覚」

その境地に至ると、善悪の判断は無く、常に穏やかで、常にどこか可笑さ、愉快さを感じる、、、それが例えどんな状況でも。

今まさに、その感覚なのかもしれない。。。そうなって何が1番嬉しかったか、今でも覚えてる。

 

「なーんだ…じゃあ、この世の誰1人として、自分も他人も責める必要なかったんじゃんか!」

草花の存在の仕方を責める人は誰もいない

出来てない、自分はダメだ、世界は腐ってる、世の中本当の幸せを知らない人だらけ、私はまだまだ、本来の自分を生きてない、分かってない、掴んでない、、、etc…毎日のように交わされていた言葉の数々。

 

どんな生き方だろうと、どんな人だろうと、何をしていようと、全てが全て、今、ただただ素晴らしいだけだった。

何ひとつとして問題は無くて、そもそも問題という概念すら無い。なにもない。(←さっき言ったように言葉にすると微妙なズレはあるけど、敢えて言うのであれば、そんなニュアンス。)

私は嬉しくて嬉しくて、と、同時に、あまりの突然の変化に、「この世で起こる事は、人間の計り知れるものではないんだなー」と心底感じ、ある意味、自分の人間的なコントロールというのを完全に諦めた。

「自分がどうこうしたからこうなった」というものではなかったから。

と、いうことは、誰でも同じ事がある日突然「はっ」と起こる可能性がある、ということだ。次は誰なんだろう?!と楽しみにしながら、スタッフみんなに意気揚々と「こんな変化が起こったよ!」と報告した。

世界で1番、無の境地に近い人達の集まりで(何だったら自分は全く分かってない部類の人間であった)、この私の拙い説明でもニュアンスを掴んですぐに理解してくれるものと強く思い込んでいた。話している最中に「はっ」となる人も居るのでは?!

でも反応は真逆で、少し前の自分と同じ「何わけわかんない事言ってんだ?この方法しかないだろ」

 

でも、私は全く何とも思わなかった。

やはり静かで、どこか愉快で、荒れ狂う叱咤激励の中で、

あ、そうなのか。。。うん、まあ何の問題もないよね。と。

 

その人だけの答え

世界、というかこの世の全ては、まるで静かな夜の湖面のように静かで、その中にちらほらと幾千、幾億もの人の数だけの水の柱のように立ち上がるものがあって、そのひとつ一つが、その人だけの答え(←ニュアンス伝われ)。

だから、唯一の方法とかじゃなく、人の数だけその人だけの方法があるんじゃないかなー?と思うことの方が今の自分には自然で、ってことは「唯一の方法である」がモットーのこの場にいるのは不自然だな、と感じて

それをそのまま(なるべく感覚に近い言葉を選んで)言葉にして伝え、私はその集まりを抜けることになった。

自然だなーと感じる感覚

何かが間違っているとか、否定する気は全くなくて、今「これだ!」と感じる事が、その人だけの答えなのだから、その集まりにいるのが自然だと感じる人はいるし、不自然と感じる人はいないし、それだけのことで。

全てがあるようにあるし、なるようになってるんだと思う。。。

 

そんな感じで、完全に抜けたのが2023年の1月の終わり。

その後は、ひょんな出会いから紹介してもらった仕事をしたりして(私は自営業が長く、人に雇われて働くということが実に20年ぶりくらいで、もう毎日が新鮮でそれはそれは楽しかった。一緒に働いた人達もものすごい不思議な人生を歩んで来た面白い人たちばかり。出会うべくして出会った、まさに場をあてがわれた感じ。)

 

2020年の春に東京から大阪へ引っ越して来て、気がつけばもうすぐ3年。

その間、濃ーーーーーい時間が流れていたと思う。

で、今は、また全く違う道に行こうとしている。次は何がどうなって、誰と出会い、どんな展開になるのか。。。

まっっっっったくわからない(また分かったら報告します。笑)。

人の数だけ答えあるどころか、自分だっていく通りもあるらしいもんねえ

 

自分でコントロールする事を諦めたので、どうなるかは全て後から結果でしか分からない。「あ、こうなるんだったんだねー。へえ〜」って。

そんな生き方が今のところ自分には自然に感じる。

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